〈回顧録〉母と絶縁するまでの人生(~29歳)
自分が自分自身をどう扱っているか、が対人関係にも出てしまうというのはこういうことなんだ、と振り返っていて実感しています。
我慢すれば報われると思って生きてきましたが、我慢の先には我慢しかありませんでした。
結局のところ、人間である以上「すべての人にとっての”完璧”」になることは不可能なのですよね。
母に反抗自体を塞がれていたため、社会人になってもなお反抗を引きずってしまっていた話。各成長過程で必要な課題をクリアしておかないと次の段階で困ることになりやすい。
結局のところ、自分の本心よりも「ほめられること」を優先してしまった私自身の責任なのだなと、今になっては思います。
子どものころから「苦しい」「嫌だ」という気持ちを封じざるをえなかったので、苦しみが当たり前になってしまい、自分の異常さに気づけませんでした。
嫌々会社員になった私は、「一つ一つの選択が微妙に間違っていた結果、今を喜べない」という状態でしたが、そのことにはまだ気づけませんでした。
「母のことが絶対的に嫌い」と気づいたのは、就職試験のSPI検査の最中でした。
「あんなに頑張ってきたのにどうしてこんなに行き詰まるんだろう」と思っていましたが、頑張る方向を間違えていたのだなと思います。
あのときの私は、私のために何ができたんだろう、と考えてみると、この記事のように、恐怖感・不安・気持ちなどを書き出してみればよかった、と思います。
強迫性障害(不潔恐怖・疾病恐怖)に本格的に悩みだしたのが20代前半のころでした。
親に気持ちを抑圧され続けた結果、嫌なものを「嫌」と言えませんでした。 しかしストレスは溜まっていくので、相手のことを嫌いになり、気まずくなるという現象を、若いころは繰り返していました。
親に認められたいがために、たいして好きでもない勉強を頑張り続けた結果。理想の自分に近づくためにした努力のはずなのに、自分のことがさらに嫌いになっていきました。
本記事は、良い人ぶりたいがために、頼み事や誘いなどを断れずに苦悩したエピソードです。
苦手な人と適度に距離をとるのは決して悪いことではなく、長い目で見ると双方にとって大事なことだと実感しています
「力づくで理想の自分に近づける」ために努力していると、努力していない人のことを見下してしまうようになりました。 でもその本心は「楽しそうでうらやましい」でした。
死ねないので少しでも「マシな自分」になるしかないと思い、無理な努力を重ねるようになりました。一時的に結果は出ても、日常的に無理しているのでどこかで破綻します。
親に愛されたい、認められたい。それがすべての動機でした。そのためにすきではないことにばかり注力して、結局、自分を失っていきました。
死ぬこともできないが、起きていることもつらいので、できるだけ眠って、時がくるのを待ちました。
当時は気づいていませんでしたが、私を不幸にする人は、なんと私の最も近くにいたのです。 そりゃ、人生うまくいかなくて当然だわ、と今では納得です。
ただ呼吸をすることがとんでもなく苦しく、精神科に行きたいと訴えたら、「嫁に行けなくなるからダメ」と保険証を隠された話。
勉強したくない気持ちを抑え込んで予備校に通っていましたが、だんだん着ていく服をえらべなくなり、登校できなくなってしまいました。
無理をして頑張りつづけると、何らかの精神あるいは身体の症状がでます。昔はそれを気合でなんとかしようとしていましたが、今思うと間違っていました。
勉強版イップスのようになって、大学受験ほぼ全敗。浪人しても自分と向き合うことができず、ただ劣等感で死にそうでした。
イヤなことは「イヤ」と言う必要があったなあ、と今は思います。 相手に伝わらなくても、「自分のために言う」のは結構大事。
勉強したいのにできない、という状態を放置した結果、大学受験はほぼ全敗。自分の本心に向き合うべきでした。
私に必要だったのは「ほんとうはもう、勉強したくない」という本音に向き合うことでした。
恋愛に干渉されるだけでもきついのに、どの選択をしても文句をつけられる。
友人との電話は盗み聞きされるのが基本でした。すぐに恋愛に結びつけられるのがうんざり。
高校生くらいになると「今妊娠したらあんたの人生終わるんだからね」と脅してくるようになった母。常に監視され、疑われることはつらかった。