お寺に行くと無性に落ち着く。
仏像を見るのも好き。
とはいえ、別に仏教徒というわけでもない。
日本ではこのような方が多いのではないでしょうか。
私もその一人です。
仏教って身近ではあるのだけれど、その教えというか、内容はほとんど知らない。
かといって、専門書を読むのは大変そうだし。
と思っていたところ、読みやすそうな本を発見。
白取春彦『超訳 仏陀の言葉』(幻冬舎・2012年)
日本仏教は商売!?
ブッダ(ゴータマ・シッダールダ)といえば、悟り。
苦しい修行をしてはみたものの、苦行では悟れないと気付き、最終的に瞑想によって悟りを開いた方です。
そんなブッダの教えが脈々と現代日本にも受け継がれているのだろうと思いこんでいたら、まえがきで衝撃を受けることになります。
日本で仏教と呼ばれているものはゴータマの教えた通りの仏教ではない。日本仏教、あるいは日本の仏教僧侶たちが行っていることは、仏教の名を借り、理由をつけて増やした宗教的に見える行事のたびに領収書のいらない多額の金銭を巻き上げる特殊な商売にすぎない。
引用元:白取春彦『超訳 仏陀の言葉』(幻冬舎・2012年)(p.4)
なんと!! 日本仏教は商売!?
そういえば……
お盆にお坊さんにお経を読んでもらうために、親戚が結構な金額のお布施をしていたのを見たことがあります。
親戚は「お金がかかる……」とぼやき、(それとなく高額のお布施を要求してくる)お坊さんに対して良い印象を持っていない感じでした。
当時小学生だったのですが、「お坊さんって意外とあくどいんだな…」みたいなことを思ったことを思い出します。
全てのお坊さんが商売根性でやっているわけではないですし、そもそもお寺やお墓の維持管理にお金が必要なのは重々承知しています。
でも確かに、必要以上に儲けている感じの方もいるのかも。
ブッダは商売を禁じたらしいので、本来の教えからは外れているのでしょう。
まぁ、個人的には、商売のために作られてきた「宗教的に見える行事」も日本文化としてとらえればけっこうおもしろいなー、とか思ったりもしますが。
ブッダが遺した本来の教えを知りつつ、日本仏教もそれはそれで楽しんでいきたいと思う。いかにも日本人的発想ですかね。
では、本来の仏教とは何なのでしょうか。
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本来の仏教とは
本来の仏教ならば、僧侶は悟るための瞑想方法を伝えなければならない
引用元:白取春彦『超訳 仏陀の言葉』(幻冬舎・2012年)(p.4)
仏が人々を救ってくれるのではなく、仏は今の苦しみからの救いの道を示すだけである。本人がその道をたどってみなければ、何も起きはしない。
引用元:白取春彦『超訳 仏陀の言葉』(幻冬舎・2012年)(p.8)
確かに。
仏像やら仏画に向かって「たすけてー」と言い放ったところで、一時的な精神的安らぎを得られる可能性はあれど、物理的には何も起こりません。
ちなみに、仏像はゴータマの姿を反映しておらず、あれは古代バラモン教の僧侶階級の姿なんだとか……。仏像見るの好きなので、少し複雑。
苦しい気持ち、これはどこから生じるのか、どうやったら消えていくのか、そういうことを考えて、自分で実践していくのが大事なのでしょう。
そのためのヒントが経典として遺されているわけですね。
読んで考えたこと
本書はブッダさんの遺した経典の中から一部を抜粋し、わかりやすいように訳されたものです。
数千年の時を経てもなお残っている言葉たちですから、全て「おおーそうですよねぇ」と唸ってしまいます。
経典をもとに様々な書物が書かれたりしているので、どこかで見聞きしたことがあるような感じも受けるかもしれません。
自分を生きる
私がまず頭を悩ませたのは次のこと。
自身を破滅させる行いとして、いくつか列挙されている箇所がありました。
抜粋すると、「悪人とは付き合うな」「老いて衰えた親を養え」とブッダは言っています。
そこでブッダ初心者の私は思ったのです。
では、親が悪人だった場合、どうしたらよいのか。
悪人であっても親だから養うのか。
親が悪人である以上、付き合わないほうがよいのか。
悪人と付き合わないことと、親を養うこと、どちらを優先するのか。
「むーん」と悩んでいたら、友人にこう言われました。
「それは自分の心に聞いてみないと。そういうことを考えるためにその本読んでるんでしょ」と。
そ、そうだった…。おっしゃる通りです(笑)
そもそも、経典から切り出された一部を読んでいるわけなので、この部分だけで判断しようとするのは早計なのでしょう(ブッダは、「執着を捨てるために親をも捨てよ」と言ったりもしていますし。また、物事の良い悪いを判断するな、とも言っていますし)。
ですが、そんな言い訳をしていると、結局何も考えなくなってしまいそうなので、現時点の、知識の不足した自分の頭で考えることも大事かなと思い、考えてみました。
親が悪人なのであれば、たとえ親であってもつき合わない。
これが私の現時点での答えです。
なにか理屈があるわけでもなく、自分の経験からそうしたいと思っただけです。
老いて衰えたからといって悪人でなくなるとは限りません。
親の毒で自分の人生が台無しになるのは嫌だと思っているのです。
ただし、この考えは、自分の人生に対する執着であり、悟りからはほど遠いのかもしれません。
難しい……。
まあ、出家するわけでもないから完全に悟る必要はなくて、日常生活が円滑に送れるようになればいいわけだから、自分が納得できるかどうか、ですかね。
さらに読み進めると、こんな言葉も出てきます。
この人生、なぜ、きみ自身が生きないのか。
きみ自身の主人はきみではなかったのか。
きみを生きよ。自分を生きよ。
「スッタニパータ」第1章
引用元:白取春彦『超訳 仏陀の言葉』(幻冬舎・2012年)(p.80)
そうでした!
確かに常識や理屈は正しいことも多いけれど、それを鵜呑みにして従うのが自分にとって正解とも限りません(法は守るにせよ)。
私の主人は私なので、私が納得できるように決めればよいのだ、と思います。
実践せよ
教えを知っているだけでは意味がない、実践して初めて教えが生きる、とブッダは言いました。
(「教え」とはちょっとちがいますが)心理学やら哲学書やら自己啓発書やらを読みまくってきた私。
本を読むことで精神的な満足感はあれど、何かが変わったかというと……そうでもない。
もちろん、全く変わらないわけでもなくて、ほんの少しずつ考え方とか認識の仕方が変わってはいるのですが。
その変化速度ってむちゃくちゃ遅いのです。
一方、本に書かれたコツなどを実践してみると……劇的な変化を感じられることがあります。
教えでも何でも、「これは!」と思ったものは、とにかく実践してみるということがとても大事なのだ、ということです(自戒を込めて)。
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我を失いそうなときに効く言葉たち
腹を立ててしまいそうなとき
人に対して怒るな。
自分のほうが正しいと思い込んで、誰かをそしるな。
人に腹を立て、その人が愚かだとか悪意に満ちているとか吹聴するな。
そんなことをすると、自分で災いを呼びよせてしまう。
あたかも、強い風に向かって塵を投げつけたときのように自分に不快なことが戻ってくる。
「サンユッタ・ニカーヤ」第Ⅶ編第1章
引用元:白取春彦『超訳 仏陀の言葉』(幻冬舎・2012年)(p.104)
怒りをぶつけると、怒りが戻ってくる。
私は怒りの多い環境で育ったので、「怒り」の発露、それ自体が悲しみだ、と思うようになりました。
それに、怒りって、実際に伝染すると思います。
逆ギレという言葉があるように、怒っている人がいると、それにつられて新たな怒りが生じることありますよね。
だから私は人前では怒らないようにしています……が、後で一人になるとモヤモヤが湧いてくる。
怒りそのものが生じないレベルになれればいいのですが、なかなかそうもいかない。
下手すると、ただ怒りを抑え込んでいるだけになり、それは身体に悪いです。
だから今はノートに怒りやらモヤモヤを書いてなだめています。
すると冷静になり、なぜ怒りが生じるのかとか、相手が一方的に悪いのではなくて、自分の思考も偏っているのではないか、とか、様々な見方ができて少しマシになります。
これって瞑想に近いものがあるのではないかと最近思うようになりました。
これを繰り返していくうちに、怒りそのものが生じなくなっていくといいなーと思いますが……。
とはいえ、怒りも大事な感情ですよね。
自分にとって何が大切か、教えてくれてもいるわけですから。
今の自分には必要だからこそ、怒りの感情もあるのだろうと思います。
これから年齢を重ねて、経験を積んで、熟成したら、いつか怒りがなくなる日がくるのかもしれません。
不運から脱せよ
不運から脱せよ。
不運はどこから来るのか。
望むものをすべて遠ざけ涙を運ぶ不運というものはどこから生じるのか。
だれか悪人が不運を持ち来たるのではない。
人を憎むとき、
あるいは、自分をののしり憎むとき、
不運は忽然と現れ、その激流で押し流すのだ。
「ダンマパダ」第15章
引用元:白取春彦『超訳 仏陀の言葉』(幻冬舎・2012年)(p.118)
若い頃は、不運はどうしようもできないと思い込んでいました。
だから不運に見舞われると絶望していました。
不運はどうしようもできないからこそ、人を憎み、自分をののしることしかできませんでした。
でも、現状を踏まえた上で、できることがある、と最近気づきました。
「不運だからどうしようもできない」と制限をかけているのは自分自身でした。
少し風向きが変わるだけで、楽になることもある。
今は不運に見舞われたとき「現状を踏まえた上で、どんな選択肢があるか」というのを考えるようにしています。
それで必ずしもうまくいくわけではありませんが、多くの出来事は事態を軽くできるのだということがわかってきました。
年齢を重ねることは、ただ老いることだと思っていましたが、精神的には成長できるのですね。
それが人生のおもしろさなのかな。
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おわりに
新しい考え方や言葉に触れて「おお、なるほど」と理解すること。
「おお、なるほど」と思って、自分の中に取り入れて実践してみること。
両者にはとてつもない差があるということを改めて思い出しました。
ブッダの教えを理解するのと、それを咀嚼して実践していくこともそう。
実践するって、けっこう難しいことなんですよね。
自分にできる範囲でゆるくやっていこうと思いました。