ししもとの読書ノート2.0

自分らしく生きるために知識をつける

湯のみに入った水が冷たいかどうかは、自分で飲んでみないとわからない |感想『心がまあるくなる禅語』

禅と聞くと思い浮かべるのは「座禅」でしょうか。禅宗の基本的な修行法ですね。

ただ、「座禅」という言葉は耳にしても、「禅宗」となるといまいちピンとこないような気も。「禅語」のことも全然知らないなぁ……しかし本格的な書籍を読むのはハードルが高い。
そんなときに、パラパラ読める本書がおすすめです。

リベラル社『心がまあるくなる 禅語』リベラル社(2013)

心がまあるくなる 禅語

心がまあるくなる 禅語

 

 

どんな本?

まず、禅語とは

禅語とは、禅宗の僧侶たちの逸話や、経典などからとられた言葉です。

リベラル社『心がまあるくなる禅語』リベラル社(2013)P.3

 

禅宗の発想やら考え方(の一部)を短くまとめてみた、といった感じでしょうか。
キャッチコピーとか格言などにも近いかもしれません。

その格言的な文言について、簡潔な言葉で説明している本です。

たとえば

玲瓏八面起清風(れいろうはちめん せいふうをおこす)

リベラル社『心がまあるくなる禅語』リベラル社(2013)P.80

 

これだけでは「なんじゃこりゃ」となります(漢文などに詳しい方は別でしょうが)が、その後の解説を読むと、「納得!」です。

「玲瓏」は美しく輝くもの、「八面」はあらゆる方向。あまりにも美しいものがあらわれると、あらゆる方向に清風が起こる。優れた人には清々しい空気が漂い、それが周りの人々にも波及していくということです。

リベラル社『心がまあるくなる禅語』リベラル社(2013)P.80


このような感じで、85の禅語とその解説が記載されています。
文字数も多くないので、空き時間にパラパラめくれる系の本です。


上記のような、生き方に関する格言っぽいものもあれば、発想自体がどこかファンタジックでおもしろい、というものもあります。

印象にのこったところ

吹毛剣(すいもうのけん)

発想がおもしろいなと思ったものは、「吹毛剣(すいもうのけん)」。

この「吹毛剣」は、毛を置いただけでもスパッと切れるほどの鋭い剣です。
もちろん、心の中の悩みも切れる!
この剣を使って、悩みやら執着やら諸々を切り捨てていって、切るものがなくなったときが最終の境地なのだとか。

今、この剣があれば、あなたは何を切り捨てますか?

リベラル社『心がまあるくなる禅語』リベラル社(2013)P.27

 

こういう問いかけがあると、自分を見つめるきっかけになりますね。

吹毛剣、欲しいような、欲しくないような……。
ただ悩んでいたいだけのこともありますからね。

冷暖知自(れいだんちじ)

冷暖知自|れいだんちじ

リベラル社『心がまあるくなる禅語』リベラル社(2013)P.14

これは解説を読まなくても、なんとなく意味がわかりそうですね。
冷たいも暖かいも自分で知る、です。

人から聞いた話を鵜呑みにして、あれはいい、これはよくないなんて判断していませんか?
 湯のみに入った水が冷たいかどうかは、自分で飲んでみないとわかりません。人がご飯を食べているのを見て、自分のお腹がふくれるわけではないのと同じです。

リベラル社『心がまあるくなる禅語』リベラル社(2013)P.14

 

私の母は湯のみに入った冷たい水を「熱いよ、熱いよ、気を付けなよ、やけどするよ」と言うような人でした(恐怖心が異常に強い)。

若い頃の私は、「んなことあるまい」と思いつつも、「ほんとに熱かったらどうしよう」と不安に陥る部分もありました。
なので、安全(というか現状維持か衰退、もしくは無難)ばかり優先して、好きなものを選べずにいました。

しかし安全ばかり維持していたら、自分の本心がどこかにいってしまいました。
それは、自分を失うこととほぼイコールでした。
ここにいるはずの自分、なのに、いない。
あるのは物質的な身体と、虚しさばかりでした。

母のことも、母が執着した「安全(というか変化しないこと)」も捨てて、「リスクはあるけれどやってみたいこと」を少しずつやるようになって、「自分」が戻ってきました。
それはどこかに行っていたわけでもなくて、ただ、自分の片隅に小さく押しやられていただけでした。

今では、「熱い」とされた湯飲みでも、そっと指先を触れさせみて「おや、熱くないぞ」、少し掴んでみて「やっぱり熱くないぞ」、すこしすすってみて「なんだ、熱くないじゃん」というプロセスを踏めるようになってきました。

母が「熱いよ! やけどするよ!」と言った湯のみのすべてには、「やけどするほどではないお湯」か「ぬるま湯」あるいは「水」が入っていました。

母にとっては、この世は熱湯だらけだったのでしょう。
しかし私にとってそれは、「60℃くらいのお湯」だったり「ぬるま湯」程度のものでした。

同じことを体験しても、人それぞれ感想は異なるのだということを、改めて実感します。


何かに挑戦しようとしたとき、だれかが「え、それ大変だよ、苦労するよ、やめときなよ」と言ったとして、それはその人の感想。

私がそう思うかどうかは別なので、やってみたければやる、ということにしています(ただし自己責任で)。

その意志を思いださせてくれたのが「冷暖知自」でした。


鶏寒上樹鴨寒下水

「冷暖知自」と重複する部分はありますが、こちらも忘れないようにしたいことです。

鶏寒上樹鴨寒下水|とりさむくしてきにのぼり かもさむくしてみずにくだる

 鶏は寒いと木の上にのぼり、鴨は寒いと水にもぐる。鳥という同じ生き物でありながら、寒さへの対処法がまったく異なります。

リベラル社『心がまあるくなる禅語』リベラル社(2013)P.162


(キジ目キジ科の鶏とカモ目カモ科の鴨だとそりゃいろいろ違うよな、とちょっと思ってしまったのですけれど、まぁそういう細かいことは本筋ではないので置いておきます)

この禅語が示すところは

よい結果を残したほかの人のやり方を真似しても、それが自分に合っていなければうまくいきません。

リベラル社『心がまあるくなる禅語』リベラル社(2013)P.162

ということ。


当ブログでも本を紹介しているように、私は本を通して、いろんな人の考え方を知ることが好きです。

だからこそ気をつけねばならないな、と思います。
作者がよいと思うやり方が、自分に合っているとは限らないからです。

このブログもそうです。
私はこんなことを思った、考えた、ここがよかった、と紹介していますが、読んでくださる方にとって、それが正解かというと、必ずしもそうではないと思います。

人それぞれ、感性も性格も得意なことも、なにもかも違うからこそ、自分自身が責任をもって、「何をやるか」を決めるのだと思います(自戒を込めて)。

個人的に気を付けていることは、いくら本などでおすすめされていることでも、自分に向いていなさそうなもの、気がすすまないことなどは無理に真似しない、ということです。
といっても、そんなに吟味したりするでもなく、「やってみよう」と思ったらやってみる、くらいのゆるい感じですが。

これを書きながら気づいたのですが、私は「成功者の真似をするのが好き」というよりは、「いろんな考え方を知り、それをもとに自分の頭で考えることが好き」という感じのようです。
ただし、考えるばかりで、実行力は足りない気がするので、バランスが大事ですね。

そこを意識しつつ、これからも本を読んでいきたいと思ったのでした。


おわりに

禅語の導入本として気軽に読むのにちょうどよい本でした。

章ごとに「迷いや悩みがある時」とか「人間関係に疲れた時」などとテーマがあるので、そのときどきの気分に合わせて読むこともできます。

本を読むほどの気力がない、というときでもほとんど負担なく読め、さらには「ハッ」とさせられたり、改めて自分の生き方を考えるきっかけにもなるかも。

禅語以外にも、ところどころにコラムがあり、仏教に関する逸話などが読めて、これがまた面白かったです。


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