大学生の頃、教養課程で履修していた哲学の授業で、幸福について考える課題がありました。
偉人の考え方や言葉を引用しながら考察したあと、「私は心が平静である状態が幸福だと思う」というようなことを書いた記憶があります(理系学部の教養科目なので、その程度で問題なかった)。
拙いながらも幸福について考えたことにより、頭の中に「幸福とは」みたいなタグがぼんやりと生じました。
この本のタイトルが目に入ったとき、「昔、哲学のレポートで考えたなぁ」と懐かしくなり、思わず手に取りました。
岸見一郎『成功ではなく、幸福について語ろう』幻冬舎(2018)
著者はアドラー研究で有名な岸見一郎先生(哲学者)。
何かのテレビ番組でお姿を拝見したことがあるのですが、穏やかな口調で、見る者をホッとさせるような雰囲気の方ですよね。
『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』のほうが有名かな。
(両方読んだのにほとんど忘れてしまった……)
どんな本?
岸見先生が行った講演、web媒体で連載していた人生相談への回答、「挫折」について問われたインタビュー記事、により構成されています。
それらに通底するテーマが「幸福」。
主に、三木清氏の『人生論ノート』を引用しながら、幸福について考える内容となっています。
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よかったところ
幸福と幸福感は別物
混同しがちですが、幸福と幸福感は別物、と著者はいいます。
幸福感は、例えばお酒を飲んで程よく酔った状態とか、その時は気分がよかったけれども、後で考えたら本当にそれでよかったのか、と思うようなこと。
別の言葉で言い換えるなら、幸福感は「高揚感」に近いのかなと思います。
あくまで私の感覚ですが、幸福は持続的で、幸福感は即物的、というイメージでしょうか(適切かどうかは自信がありませんが…)。
幸福と成功も別物
また、幸福は成功とも混同しやすいですね。
よい学校に入って、よい会社に入って、裕福になる、という、親や親戚が勧めてきがちな人生コース、これは「幸福」ではなくて、「成功」なのです。
成功したからといって幸福とは限らない、というのは私自身、身を持って体験したことがあります。
上で書いたような、よい(かどうかはわかりませんが、就職などで不都合を感じない程度の)学校に入って、よい(かどうかはわかりませんが、おそらく誰もが名を知っている)会社に入り、高いお給料を頂いていたことがあります。
ですが、私にはその生き方は向いておらず、辛くて辛くて仕方がなかったのです。
生きながら死んでいるような感覚でしたから、幸福とはほど遠い状態でした。
結局耐えられず、そのルートからは降りてしまいました。
その当時は、「他者が思う幸せと、自分が思う幸せの間に、大きな乖離があるのだろう(=自分はすこぶる変わった人間なのだろう)」と思っていましたが、そもそも成功と幸福を混同してしまっていたのですね、自分自身も、私の周りの人々(親など)も。
では、幸福とは
人によって違う、オリジナルなもの
一方、幸福はオリジナルもの、その人だけにあてはまるもの。
例えば、岸見先生の場合でいうと、「プラトンの対話篇を訳せたことは幸福」だそうです。
しかし、プラトンに興味がない人からすれば別になんとも思わないわけで(むしろ私にとっては難しくて苦痛そうな気さえします)。
他の例を考えてみると、例えば、マラソンが好きな人は、(つらいときもあるにせよ)走ること自体が幸福かもしれません。
が、私などは長距離走が大の苦手なので、苦痛100%以外の何物でもありません。
こんな風に、何が幸福かは、人によって全然違うわけですね。
また、哲学者の三木清氏によれば、幸福は「存在」である、といいます。
それはどういうことかというと
今をこうして生きていることが、そのままで幸福であるという意味です。どういうことかというと、幸福であるために何かを達成しなくてもいいということです。
引用元:岸見一郎『成功ではなく、幸福について語ろう』幻冬舎(2018)p.23
「幸福」という言葉に対して、何か特別な状態をイメージしてしまいがちですが、決してそうではない、と
自分が「幸福」だと思えば、すでに「幸福」である、ということですかね。
何かを達成したり、手に入れようとすることは、幸福になろうとしているのではなくて、成功しようとしているに過ぎないのですね(成功することと幸福が、完全にイコールの人も、いるのかもしれませんが)。
成功と幸福の違いを自分なりに考えてみると、成功はある程度共通した概念で説明しやすく、幸福のほうはバラエティに富んでいてるので(抽象的な説明はできても)具体的な定義はしづらい、って感じなのかな、と私は今のところなんとなく考えています。
幸福は表現的なもの
また、三木清氏によれば、幸福は表現的なものだといいます。
「鳥の歌うが如くおのずから外に現して他の人を幸福にするものが真の幸福である」
三木清
岸見先生は次のように解説しています。
私たちができることは、まず自分が幸福になることです。自分の幸福は鳥が歌うように外に現れ、その幸福は他の人を幸福にします。他方、不幸そうにしていたらその不幸は他の人に伝わります。
引用元:岸見一郎『成功ではなく、幸福について語ろう』幻冬舎(2018)p.225
幸福が表現的なものである、と聞いて私の脳裏にまず思い浮かんだのが、ミュージシャン。
彼らは自分たちの好きな音楽を追及すること、それを表現することが幸福なわけです。
そして、彼らの音楽やライブを通じて、聞き手である我々にも幸福が伝わり、我々も幸福になります。
つまり幸福って、win-winなものなのだなぁ、と思いました。
私自身はずっと、自分は幸福になってはいけない、自分よりも他人の幸福を優先せねばならない、と思い込んでいました(家庭環境の影響で、自分より親を優先する癖がついていました)。
自分が幸福になろうとすることは、ワガママ、傲慢なのだ、と思っていました。
だから「自分が我慢すればこの場はおさまる」というような状況では、自分の本心を抑えることが多かったように思います。
進路なども「こっちの方が親が安心するから」的な事情を考慮して選んできました。
ですが、それだと、自分自身が幸福ではないので、長期的にうまくいかないということがわかってきました。
自分が我慢するということを選択したのは紛れもない私なのですが、それでも(いつも私ばっかり我慢して)みたいな恨みが溜まっていくのですよね。
鬱憤をためすぎると、ある日突然爆発してしまうこともありますし、そうでなくても(いつも私ばっかり損している)と思っていること自体が幸福ではなく、苦しい。
苦しいと、その苦しさは何らかのかたちで、周囲に伝わってしまうことがある。
かなり気をつけているつもりでも、ふとしたときのため息とか。
苦しさを表出しないようにすることにもまた、エネルギーを使いますしね。
そういった体験を重ねてようやく、自分自身が幸福になることが大事だ、ということを私も理解できるようになってきました。
自分自身が幸福を表現するにはどうしたらいいのか
自分自身が幸福になることが大事だということは納得した。
でも、具体的にどうしたらいいの?と思いますよね。
次の記事で考えていきます。
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