米澤穂信氏編集の『世界堂書店』に収められている短編の感想。
「昔の借りを返す話」シュテファン・ツヴァイク(長坂聰 訳)
~かんたんにあらすじ(※ネタバレ含みます)~
心身とも疲れてやってきた旅行先の食堂で老いぼれた男に遭遇。
今の姿からは想像できないが、かつて夢中になった俳優だった。
しかし、周囲の人々はそんなことも知らず、邪険に扱っている。
主人公(語り手)は、かつてこの元俳優の老人に借りがあったことを思い出す。
そこで、俳優時代のエピソードを誇張し、彼を立ててやることにした。
すると周囲の人も彼を見る目が変わっていく。
人生の最後で、彼に借りを返すことができた。
みたいな話。
~感想~
私は基本的に「(いいことも悪いことも)人にしたことは、まわりまわって(間接的にかもしれないけれど)自分に戻ってくる」と思っているのですが、まさにそういう話。
何かやってもらったこと、配慮してもらったこと、その時は気づいていなくても、後で気づいたりわかったりすることも結構あるなあと、思っていて。
若い頃は気づかなかったけど、中年になってみてわかって感謝する、みたいなことは本当によくありますよね(逆に相手が未熟だったとわかる場合もある)。
だからこの話の、主人公&元俳優の老人の気持ちも立場も両方わかる、みたいな感じでちょっとハッとなりました。
ついつい「あのとき私が配慮したこと、相手は気づいてないよなあ……伝わらなかったなあ」とちょっと寂しく思ってしまうこともありますが(←これ自体が見返りを求めているわけで恥ずかしいけど)、どこかのタイミングで気づいてくれる可能性もあるし、相手が気づかなかったとしても外から見ていた別の人が実は気づいていて親切にしてくれるとか、もあるんですよね。
ようするに、帳尻が合うというか。
自然科学でいうところの「エネルギー保存の法則」みたいなイメージ(人間が関与するので自然法則のような厳密性はないけれど、おおむねそういう印象だということ)。
なので、できる範囲で人にやさしくすることは大事だし、人にやさしくするためには、日頃から自分にもやさしくしておくことも大事(※)というようなことを考えました。
(※)自分にやさしくすることはよくないことだと教わって生きてきたのですが、自分に厳しくしていると、それが言動に染み付いて人にも厳しくなってしまうのだと、やっとわかってきた。
で、ここで終わらないのがこの話のおもしろさでして。
~「解説にかえて」をふまえて~
巻末の解説に
昔の借りを返すために語り手が用いた手段が「誇張」だったことが、小説に微妙な陰翳を与えている。「真実」では、彼を救うには十分でなかったとでも言うのだろうか?
世界堂書店 (文春文庫 よ 29-2) p.391
とあって、これでまた「はっ!!!」となりました。
たしかに「誇張」するということは、「真実」だと不十分だからですよね?
お話に登場する老人は、病気の後遺症もあり、あまりにもみすぼらしい姿なので、誇張くらいしないと周囲の人を動かすことができない、と主人公は思ったわけですよね……。
それってやはり、相手を甘く見ているということなのか?
まあ、このお話の場合は、誇張が老人にとってよいほうに働いた(現実として利がある)ので、これはこれでよかったんだという気もするのですが。
真実を是とする価値観の人からしたら気持ち悪いのかな。
私自身も、人間関係を円滑にしたいがために「ちょい盛り」くらいのことはよくやるので、背中がヒエっとなりました……。
結局のところ、人それぞれ「正しさ」や「してもらって嬉しいこと」は違うから、やっぱり難しいなあと思います。
相手をしっかり理解していないと、「親切」のつもりが「お節介」になることはあるあるですしね。
やさしくするとか肯定とか、そういうことの前に「理解ありき」なんですかね。
それが一番の親切なのかな。
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