『哲学の先生と人生の話をしよう』を読んで、とくに納得感のあったところとその感想を記しています。
本記事では「自分に嘘をつく」とはどういうことか、を考えていきます。
本の全体的は感想は>>>自分で考えるときに参考になりそうな本|『哲学の先生と人生の話をしよう』
自分に嘘をつくとは?
「「自分に嘘をつく」とはどういうことなのでしょうか?」という質問(p.104)に対する返答の中で。
まず、人間には「情動」と「感情」がある(これに関してはアントニオ・ダマシオの『感じる脳』という本を紹介されています)。
情動:ある刺激に対する生体の反応そのもの
感情:心の中で意識される気持ち
身体の反射的な反応である「情動」がまずあって、そのあと「感情」がくる。
具体例をいえば、危険な目に遭ったとき、脈が速くなったりするのが「情動」で、怖いとかどうしようとか思ったりするのが「感情」なわけです。
そして「なんかおかしい」という違和感は「情動」である(と思われる)。
つまり、違和感は生体の反応なわけです。
この違和感の正体を「感情」によって精査することが大事なわけですが、ここに落とし穴が。
本来ならば
「なんかおかしい(違和感)」→それを避ける
となるところを、人間の場合は
「なんかおかしい(違和感)」→「おかしい気がするが、やらねばならない」
などと考えてしまったりするんですね。
感情を入手したことにより、「情動」を無視したり、裏切ることもできるようになった。これによって、自分に嘘をつくこともできるようになった、と著者は解説しています。
この違和感を無視する、という行為、私自身ものすごくやっていました。
「なんかおかしい」だけでなく「なんかイヤだな」「なんか落ち着かない」とか。
いずれもその正体をうまく説明することができず、まさに「なんか…」なのですけど、とにかく「なんとなくだが、良い感じはしない」系。
とはいえ、瞬時に説明できないので、これら「なんか…」シリーズは、単に自分がワガママなせいだろう、と思い込んでいました。
「なんか…」というあやふやな感覚よりも、「社会的にはこうあるべき、常識的にはこうすべき」を優先させねばならないと思い込んでいたのです。
その結果、いつもなんだかモヤモヤしている…。
モヤモヤしていること自体が、私の足を引っ張ったのでしょう。
「なんかイヤ」という感覚のまま「でも、こうすべき」と思って選択したことは全て失敗しました。人間関係、進路、仕事…etc
もちろん、「なんか嫌」が生体の過剰反応(※)というケースもあるでしょうから、鵜呑みにする必要もないのだろうと思います。
(※)過去に辛い体験などがある場合は、過剰反応してしまいますので。
ただ、「なんかイヤ」の段階で、「何がひっかかっているのか?」ということを自分に問いかける、精査することが大事だったのですよね。
いつから私は「違和感」を無視するようになったのだろう、と振り返ると、やはり親や周りの人の言葉が影響している気がします。
「それはわがまま」「逃げてるだけ」「社会じゃ通用しない」…。
しかし、他人がどう言おうと、自分の「違和感」を大切にせねばならない、と思いました。
自分の身体の反応なのですから。
他の人にはわからないものですから。
情動(生体の反応)を無視し続けると、いろんなところが壊れてくる、というのも個人的に感じるところです。
失敗からいろいろ学んだので、最近は違和感を感じたり、気が進まないとき、「ほんとうにこれでいいの?」と少し立ち止まることもできるようになってきました。
「違和感」を大切にできるようになった、といえそうです。
生きることのつらさが、以前より断然軽くなりました。