「長く生きていると、いろいろあるなぁ」と思うようになってきました。
特に、ここ10年くらいを振り返ってみると、世の中的にはいろいろあったなあ、と感じます。
大きなものだけでも、東日本大震災、毎年の巨大台風、それに伴う水害など。
そしてここにきて、新型コロナウイルスの流行。
最近は、諸々の自粛要請もあり、閉塞感が漂っていますよね。
個人的にもジムやカラオケやライブの自粛がつらい……。
いつまで続くのだろう、という先の見えない感じは、地味にダメージを与えてきます。
この雰囲気、どこかで感じた(読んだ)ことあるな、と思ったのですよ。
平安時代末期に書かれた、鴨長明の『方丈記』です。
平安時代に比べて、現代では文化や技術が著しく発達したとはいえ、「大きな流れ(自然災害など)にはさからえない」という点は共通しているんですよね。
今の時代・気分にフィットしそう、ということで、読み返してみました。
鴨長明、武田友宏編『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 方丈記(全)』角川ソフィア文庫(2007)
どんな本?
中学生のときに、国語の授業で『方丈記』を扱ったという方も多いのでは。
私も習ったのですが、当時は「世の中は無常」「変わらないように見えるものさえ、変化し続けているのだな」という程度にしか理解できていませんでした。
大人になって読み返してみると、「こんなに深い話だったのか」と衝撃を受けます。
『方丈記』に限らずですが、中学高校の古文の授業では、内容をじっくり味わうというよりは、現代語に訳すことに重きが置かれていた(ような気がする)せいでしょうか(私がついていけてなかっただけか)。
本書は現代語訳つきです。
古文を勉強したいというわけでなければ、現代語訳の部分だけ読めば十分かと。
原文はもちろん、時代背景を含めた解説もかなり詳しく入っていますので、勉強したい方にも有用と思います。
『方丈記』おさらい
名家に生まれたものの、後継ぎ争いに敗北して、大きな挫折を味わうことになった鴨長明。
また、20代のうちに、大火災、竜巻、飢饉、大地震など、とんでもない大災害を経験します。
これらの経験を通して、「無常」の人生観にたどり着きます。
鴨長明が培ってきた無常観、また、この無常の世の中でどう生きていくのか、が書かれている、といったところでしょうか。
本来は鴨長明の名ではなく、僧の蓮胤としての著作ですので、仏教色が強い部分もありますね。
『方丈記』につづられていることをひとことで表すならば
この世の無常と身の処し方
鴨長明、武田友宏編『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 方丈記(全)』角川ソフィア文庫(2007) 裏表紙
このあたりが定番かなと思います。
的確なのですが、ちょっと具体性がなくてピンとこないですかね。
他の切り口から見てみると
「~元エリートが分析~ 人と住まい環境の相関論」
とも捉えることができるかな、と。
また、無常の人生観を構築するにあたり、後継ぎ争いによる挫折経験も大きく関与していますので、
「平安時代の挫折文学」
的な面もあると思います。
そして、鴨長明自身については
ミニマリストのはしり
ともいえそうです。
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話の流れ
あくまで私が理解した範囲ですけれども、話の流れとしては以下のような構成かと。
この世は無常、変わらないことは何一つないぞ!
↓
大災害や飢饉、政治的な動乱などの回想。
大きな力に振り回され、破壊されていく都を幾度も目の当たりにしてきた。
見栄を張って豪華な家を建てても、壊れるときはあっさり壊れてしまう。
↓
どうせ壊れるんだから、最初から持たなければいい。
特に危険な都の中に建てるなんて無意味。
↓
自分自身の過去を振り返る。
自分もまた、住む環境や境遇によって心を悩まされてきた。
心の安らぎは、外に求めても決して得られない。
↓
心を磨き、仏の道を進もう、と出家。
↓
都の騒動や他人の影響を受けない郊外(でも街に行ける距離)、そこでの簡素な住まい(四畳半の庵)にたどり着く。
この暮らしは大変すばらしい。
↓
やはり仏教の教え「何事にも執着心をもってはならない」に尽きる。
……だが……。
はて……私は今、この四畳半生活に執着しているのではないか……。
感想 最後の段が心に残る
「執着するまい」と思いつつ、簡素な暮らしに執着していることに気づいた鴨長明が自問自答するシーン(最後の段)がいいですよね。
(以下、勝手に意訳)
あー、うざい奴もいないし、自然はきれいだし、郊外四畳半暮らしサイコ―!
都の人々は、諸々執着しすぎだよねー。
って、あれ?? ワシ、この暮らしに執着してるよな……?
仏の道を実践しようとして、俗世を捨ててここに来たのに、汚れてるじゃんか!
なんで汚れてしまったんだ……
前世でなんか悪いことしたんかな?
あるいは、いろいろ悩み過ぎて頭おかしくなってしまったか?
どっち?
……。(心は答えず)
「南無阿弥陀仏!」×3
ぱっと読んだだけではなかなか理解するのが難しいですよね。
私も解説を読んでほんのちょっとわかったような気がする程度です。
なぜ答えなかったかというと、答えるとそれは執着になってしまうから。
しかし、答えないということは、「問答」として成立しない。
その結果出てきたのが「念仏」、ということらしい。
このあたりの解釈は専門家の間でもいろんな説があるようです。
私が感じたのは、
人間である以上、人間以外の存在(仏など)になることに限界がある、というか。
「(理想に向かって)そう在ろう」とすることしかできない、みたいな。
ちょっと言葉にするのが難しいのですけど、そういうニュアンスでした。
また、この段を読んでいて、仏教のお経の『維摩経』を思い出しました。
維摩さんという、在家の信者が登場するんですが、すごく弁舌に長けた人なんです。
あるとき、維摩さんが病気をします。
お釈迦さまが「誰か維摩さんのところへお見舞いに行きなさい」と言うのですが、みんな論破された経験があるので、だれも行きたがらない。
そこで、知恵の象徴である、文殊菩薩さんご一行がお見舞いに行くことに。
維摩さんと文殊菩薩さんは、「不二に入るとは?」というテーマで問答になります。
(不二とは、「対立する二つのことが根底では一体であること」という考え方)
他の菩薩たちがそれぞれ考えを述べるなか、「あなたはどう思う?」と聞かれた維摩さんは、黙して何も語らず。
その様子を見て、文殊菩薩さんが「これぞ不二に入るということだ!」と説いた、というお話。
ちょっと理解するのが難しいですが、なんか……『方丈記』のラストシーンとかぶりません?
問いかけに対して、何も答えない、というところとか。
方丈記のラストの、執着するまいとして、結果的に執着してしまった、というところ。
これ、「対立する二つのことが本質的に同じ」という「不二」という考え方にも通じる部分、ありそうですよね。
また、方丈の庵(四畳半の小屋)は、維摩さんの住まいを真似たものなんです(鴨長明本人が文中でそう言っている)。
鴨長明の生き方に『維摩経』が影響していたことがうかがえますね。
多分、専門家の間では周知のことなんでしょうけど、個人的には「そうだったのか!」みたいな気持ちになりました。
『方丈記』って「随筆」のカテゴリーに入っていますけど、「仏教の教えをかみくだいたもの」のほうが実感としては近いのかもしれませんね。
僧としての名で書いているし。
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現代に通じるところ
なんだか今の空気と似ているなあ、と思ったのが、「養和の飢饉」の段。
養和のころ(1181~1182)、自然災害が続いて、穀物が実らなくなり、どんなに働いても何のかいもないという状況が二年続きます。
都の物資供給は地方に依存していたからそちらも惨劇。
しかし朝廷がとる策は「祈祷」で、何も変わらず。
なんとか年を越えたと思ったら、こんどは疫病が流行。
街中に積みあがる死体、強盗や放火も多発。
誰もが被災者。
(しかもこの三年後に大地震)
もちろん、現代日本では飢饉など考えにくいですし、ここまでの惨劇はまずないでしょうが……。
飢饉を「経済的下降」と置き換えると、これまでの景気や増税で「なんとなく経済が下向きの雰囲気」だったところに、新型コロナウイルスの流行で泣きっ面に蜂というか、「先の見えなさ」「どこまで堕ちるんだろう」みたいな怖さが似ているかなあ、と。
このあと長明は「でも、こんな心温まる場面もあったよ」というのを挟みつつも、最終的には、人間はいかに懲りない存在であるかを嘆いています。
解説から引用します。
せっかくの「無常」の体験から学ぶことなく、忘却のかなたに押しやってしまう。これを日本人特有の「無常」の災害観と片づける向きも多い。災害を運命的なものとしてきれいさっぱりあきらめてしまう、その妙な潔さが「無常」観の根底にあるというのだ。
だが、長明はそう考えなかった。「無常」を嘆くよりも、むしろ「無常」に対決して自分なりの生き方を打ち立てようとした。「無常」の体験から学び取ろうとしない人間を問題視したのだ。
鴨長明、武田友宏編『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 方丈記(全)』角川ソフィア文庫(2007) P.89
なるほど、「無常」から学び取らないことを問題視したのですね。
たしかに、「そこまでの大きな災害はめったにこないから大丈夫」という甘さのせいで惨劇になったこと、現代でも多々ありますものね(堤防の高さが実は足りなかったとか……ハザードマップで危険なはずの場所にタワーマンションが建っていたとか……)。
今のような非常事態のときこそ、学べるところは学び、のちに生かすことが大事なんですね。
おわりに
名家に生まれながらも後継ぎ争いに敗北してしまうとか、災害で傷を負った人の姿に心を痛めるとか、人との関わりがつらくて隠遁してしまうとか。
鴨長明は、繊細な人だったのではないかな、と思います。
プライドの高さも見え隠れしますから、傷ついた経験が多かったのかもしれませんね。
そのような人間臭さと、いかんともしがたいこと(無常)を深く深く考えていくストイックさのようなものが、千年近く経っても我々を魅了するのでしょうか。
原文で読もうとするとハードルが高いですが、現代語訳で読むとスッと読め、今を生きる私たちにも参考になる本です。
(維摩経に関する参考文献)
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