以前読んだ西村佳哲氏の『自分の仕事をつくる』が良かったので、その続編『自分をいかして生きる』を読みました。
(過去記事)
ちなみに、以前読んだ『自分の仕事をつくる』のポイントとしては
・やり方がちがうから結果も違う
(真似すればだれでも結果が出るやり方というわけではなく、その人でないと機能しないやり方をしている)
・(どんな依頼であっても)やらされているのではなく「自分の仕事」としている
かと思います。
その『自分の仕事をつくる』の補稿にあたるのが
西村佳哲『自分をいかして生きる(ちくま文庫)』筑摩書房(2011)
です。
どんな本?
タイトルからすると、生き方全般について書かれていそうな印象ですが、仕事について考える内容です。
生きている時間のうち、仕事が占める割合は高いので、働き方は生き方に直結しますし、また、以下の引用のように
人間の仕事とは「死ぬまで自分をいかして生きる」ことのように思える
西村佳哲『自分をいかして生きる(ちくま文庫)』筑摩書房(2011)P.13
仕事をより大きな概念として捉えています。
本書の最初のほうで、前著『自分の仕事をつくる』を著者ご自身が振り返っているのですが、それを読んでみると「理解しているつもりでいたけれど、しきれていなかった」という部分もあったので、それだけでも続編を読んでよかった、と思いました。
また、前著『自分の仕事をつくる』では、「何(の仕事)をするか」よりは、「どういった仕事のやり方をするか」という面が語られていたと思うのですが、本書『自分をいかして生きる』では、「何(の仕事)をするか」についても考えられています。
やりたいことがわからない、好きなことがわからない、と悩んでいる方には非常に参考になるところがあるのではないかと思いました。
よかったところ
「成果」以外のところ
成果として表に現れる仕事は、いわば作物のようなものだ。たとえばトマトの「実の部分だけ」をつくることはできない。果実は一本の苗の一部分で、その苗も生命の働きの一部分である。一粒のトマトを食べる時、わたしたちはそのトマトを育んだ土壌、気象、生産者の営みのすべてを口にしている。
西村佳哲『自分をいかして生きる(ちくま文庫)』筑摩書房(2011)
本当にその通りで、「成果」として私たちが認識しているものって、ごく一部なのですよね。
例えば絵画などの芸術作品にしても、私たちが観るのは「作品」のみです(基本的には)。
(専門性のある人は別でしょうが、普通に鑑賞するぶんには)その作品が生み出される過程にまで意識が向かないことのほうが多いですよね。
大作であれば、何年も費やしているでしょう。
今、目にしている作品の影に、たくさんのボツもあるでしょう。
この、ボツを含め、生み出される過程もまた「仕事」であることに変わりはないわけです。
そうした種々の労力が、作品には詰まっていて、そのすべてを味わっている。
改めて「成果」というものを見つめると、感慨深いものがあります。
「成果」として目に見える部分も非常に大事ではあります(現代社会ではどうしても成果に偏りがちですよね)が、「成果」に至るまでのプロセスにも目を向けられるようになりたいと思ったのでした(どんな仕事でも)。
そうすると、自分の周囲にあるモノやシステムに、より価値を感じられたり、愛着がわいたりしそうなので。
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何をやったらいいのかわからないときに考えてみること
「お客さん」でいられないことは?
「好きを仕事に」はよく言われることですし、私自身も基本的にはその考えに肯定的です。
将来の安定性とか親の目を気にして前職を選んだ結果、失敗していますので。
かといって、「好き」だけでいいのか、と著者は考えます。
どんなに映画が好きでも、ただそれを見ていれば幸せで、足りる人はお客さんだと思う。別に客でいることが悪いわけじゃない。店で食事をして、「美味しかったー」とただ満足して家路につけるなら、そこに自分の仕事の影は見あたらないのだろう。
西村佳哲『自分をいかして生きる(ちくま文庫)』筑摩書房(2011)p.73
では、仕事にできる可能性のあることって、どう見極めたらよいのか、というと。
「自分がお客さんでいられないことは?」という問いはどうだろう。
西村佳哲『自分をいかして生きる(ちくま文庫)』筑摩書房(2011)p.73
「自分ならこうするのに!」と思ったり、何か焦りのようなものを感じたり、その仕事に就いている人に対して嫉妬のようなものを覚えたり、といったことでしょうかね。
なにが流行っているとか儲かるとか、このように生きるべきといった外側の指標ではなく、自分の葛藤。「ザワザワする」ところ。「お客さんではすまない」部分。「好き」よりさらに前の感覚的なもの。
西村佳哲『自分をいかして生きる(ちくま文庫)』筑摩書房(2011)p.77
たしかに、「好きだけれど、仕事にしようと思ったことはない」という事柄ってありますよね。
私はカフェでくつろいだり本を読むのがとても好きですが、「自分でカフェを開こう!」とは一度も思ったことがないです。
まさに「お客さんでいることに満足」の状態。
では、「お客さんでいられない」ことがあるかというと……私の場合は「なにかをつくっている人」には嫉妬しますね。
「なにかをつくっている」をもう少し具体的に説明すると
「「自分にはコレ!」という対象を見つけて、それを作ったり表現している人」
という感じ。
「なにか」というのは、その人にとって「絶対外せないもの」であれば、結果的にそれが絵だろうが書だろうが音楽だろうが研究だろうが何でもいいんです。
「ああ、この人には、これがどうしても必要なんだ」と必然性を感じること、そしてそれにのめり込む姿をとてもうらやましいと思ってしまいます。
肝心の「なにか(のめり込む対象)」がはっきりしないのが私の痛いところなのですが……。
おそらく「成果を出せないならそれはゼロ」という教育を受けてきたため、わりとすぐ諦めるクセがついてしまったのではないかと。
好きなことであっても「ははん、それで飯が食えるわけでもあるまいし(※)」と親戚などに言われると、一気にやる気がなくなる、というか。
(※「食える食えない」の観点はもちろん必要だと思いますが、子供のうちは成果を気にせず「ただ好きだから」でやることがあってもよかったのではないかと今は思います)
結局、「他人に認められること」ばかり意識したせいで、自分にとって大事なものを見失ってきたのだろうと思います。
力の出ることは何か?
著者も、20代後半でなにがやりたいのかと悩んだ時期があるそうです。
そのころの自分に会ったら、今の自分はどう関わるだろうかというと、「基本的にアドバイスはしない」そうですが
「力が出ることをやりなよ」、ぐらいは口に出すかもしれない。力を出し切ることが、潜在的な可能性をひらいてゆく唯一の方法だと思うから。
西村佳哲『自分をいかして生きる(ちくま文庫)』筑摩書房(2011)p.93
これ、すごくいいなと思いました。
何がやりたいかはわかりづらくても、「無理なく力が出ること」だったら体感的に認識しやすい気がします。
いま、どうしたいか?
また、本書には、蕎麦屋・黒森庵の加藤さんという方が登場するのですが、その方の言葉も参考になりそうです。
やりたいことが見つからないとか、何をやってもうまくいかないとか、面白くないということがあっても、どの瞬間でも、その中で一番やりたいことは多分ある。
「いまどうしたいか」、ということ。それをやってゆくと何か見つかってくるんじゃないかって。
西村佳哲『自分をいかして生きる(ちくま文庫)』筑摩書房(2011)p.115
途方もなく「やりたいことがわからない」場合は、その時その時の、「やりたいこと」をやるといい、ということですね。
ボトムアップ方式というか。
振り返ってみると、私も以前勤めていた会社を辞めて「やりたいことがわからない、というかむしろ、もう何もしたくない」状態だったときは、ひたすら「その瞬間瞬間にやろうと思うこと」をやっていたように思います。
本を読んだり、洋服を作ったり、昼寝したり、散歩したり。
そのように気ままに過ごしていると「このままだと将来どうなってしまうのだろう……」といった不安が生じる方も多いだろうとは思います。
私の場合は「ここでリセットしておかないと、中途半端なまま社会に戻っても、同じ失敗を繰り返すだろう」と感じていたので、割り切って休むことができました。
だからこそ、「その瞬間瞬間にやりたいこと」を粛々と遂行できたように思います。
人それぞれいろんな事情がありますから、「やりたいことをやらねば!」と焦る必要はなくて、自分にできる範囲で「いまどうしたいか」をかなえていくのが大事なのだろうと思います。
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おわりに
天職探し・自分探しをしている人には参考になる本です。
ちょっと抽象的なところもあるので、合う合わないはあるかもしれません。
考えることが好きな人には合っていると思います。
一方で、わかりやすく「コレ!」と答えを提示してくれるタイプの本が好きな人にはちょっともどかしいかも。
読むたびにふせんをつける箇所が変わるので、今後も折に触れて読み返したいと思っています。
(やりたいことを考えるときに参考になりそうな本)